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本棚もの語り

本棚にみっちり詰まった漫画を端から端まで語り尽くすブログ

本棚A - 5列目(1/2):絶版本を所持する優越感、「蟲師」以前の短編集「バイオ・ルミネッセンス」

本棚の5列目、今回も長くなったのでまず前半部分です。

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このあたりも続刊とか、続刊のさらに中途半端なところから揃っているものがあります。本棚収容量の限界に挑み、処分したり買い直したりを幾度も繰り返した結果、現状はこのような並びに落ち着いています……と見せかけて、最近ついに「大奥」最新刊が入らなくなりました。右端の漫画じゃないやつ(DVD)をどうにかすべきですね。

この記事では謎の蔦カバーに覆われた一冊までを紹介します。

3月のライオン」羽海野 チカ(11巻~)

映画化によりさらなる注目を集める「3月のライオン」。内容は、とある孤独な高校生棋士と、彼を取り巻く人々の群像劇、といったところでしょうか。涙あり笑いあり、大人のドロドロもあれば淡い恋バナもあり、連載されているのは青年誌ですが、老若男女楽しめる内容なのではないかと思います。

羽海野チカというと、私は高村薫作品では「李歐」「わが手に拳銃を」が一番好きなので……と話し始めそうになる、このあたりで分かる人には分かると思いますが、まあそういうことで、いろんな角度からファンではありました。「ハチミツとクローバー」ももちろん全巻そろっています。(本棚ではなくケースに入れています)

さて羽海野チカ作品の魅力というと、私としては「ここではないどこか」とか「アナザーワールド」とか、ファンタスティックな単語をつい思い浮かべてしまいます。現実味のうすい、キラキラしたなにか。それらを過剰摂取したいときに適切な漫画とでも言いましょうか。しかし、だからと言ってご都合主義になりすぎるわけでもないし、完全にフワフワと地面から浮いてしまっているわけでもない。(この文脈で例を挙げると批判的になってしまうのですが誓ってそんな意図はないと前置きしつつ、「地に足がついてないここではないどこか系」の例としてはやまざき貴子作品が適切かと思います。羽海野チカはそれとはまったく別種の、地に足が着くか着かないかギリギリの現実離れ)

はい、そのキラキラしたなにか、本作「3月のライオン」では、川本家の三姉妹が該当すると思います。彼女らは、都合のよいときだけ極端に頭がよく、そうでないときはただフワフワかわいい。でもそれでも、「そういう生き物」として生きている感じがちゃんとある、そこら辺がすごく絶妙なんです。主人公の零くんもそう。多分、将棋がすごく強くてこれだけ頭がよく、やさしさも持ち合わせている、となると、いじめられるとしてもせいぜい小学校までだという気がするんですよね。中学くらいから、じょじょに頭のよい子が持ち上げられるようになっていくと思うし、あと、勝負強さみたいなのは「男子」から一目置かれるようになる気もする、とくに「理系男子」と呼ばれそうな彼ら。でもそうなるとストーリーの都合上イマイチなので、零くんはずっといじめられっ子だし、いい子になり過ぎると矛盾するのでコミュ障部分が強調される。けど、ある部分が不自然だからといって、作者の操り人形みたいになる印象はない、ちゃんと生きている感じがする。絶妙です。絶妙に不安定。

だからこそ、目が離せなくなる。彼ら、彼女らの「生きている感じ」がどこへ行き着くのか、それが気になってしょうがないのです。不安定だから、不自然だから、全然先が読めなくて、気になる。

そう、先の読めなさというのも羽海野チカ作品の魅力のひとつです。この作者さんは、連続した長いドラマというのを描かない(※描けない、と書くと恣意的になってしまうので描かない、とします)、なんとなく数話ごとに完結しながら、いろんなキャラクターにカメラを割り当てて、少しずつ日常を切り取る、という描き方をします。そして多分、この描き方だけが、唯一、「現実」と似ているわけです。我々の生きている日常と。特別なドラマが一気に起こるんじゃなく、普通にご飯食べて寝て仕事して、それを繰り返していくなかに織り込まれるドラマ、羽海野チカのストーリーの描き方は、現実そのものととてもよく似ている。

キャラクターは過剰にキラキラして、それぞれ作品を作るうえでの「都合」を背負い、それでもきちんと生きているように見えるのは、キャラ作りのバランス感もさることながら、この「現実とよく似た話運び」の副産物だとも言えるのではないでしょうか。

羽海野チカ作品に対して一般によく聞かれる、「かわいい」「切ない」「作中に出てくるご飯がおいしそう」といった感想とはかけ離れてしまいましたが、私にはこう見えるということで、書いてみました。

最後に少し補足するとすれば、「3月のライオン」は将棋をテーマにしているけれどもいわゆる将棋漫画ではない、という点も面白いと思います。将棋部分をまるっと囲碁に入れ替えても成立するし、なんなら零くんは天才プログラマでもいい。単純にこれは、「幼い頃から血の滲むような努力を重ね、高校生にして仕事を持ち、頼りになる人もいない街で、孤独と向き合って生きようとしていた少年の成長譚」であって、将棋がどうこうという話ではないと私は思います。ただ、この漫画の影響もあって将棋が注目されるようになり、これまでそれほど多くなかった将棋漫画が増えたのはたいへん素晴らしいことだとも思います。

本書以前の将棋漫画というと、私は「ハチワンダイバー」がかなり好きです。

……話が逸れてきたのでこの辺で。「3月のライオン」、続きが超楽しみですが、零くんとひなちゃんにはあまりくっついてほしくない、王道の少女漫画展開が苦手な私であります。

「大奥」よしなが ふみ(13巻~)

大奥 10 (ジェッツコミックス)

大奥 10 (ジェッツコミックス)

なぜ中途半端に10巻から置いてあるのか。答えは簡単で、処分してしまったからです。いやもう、1巻からずっと新刊が出るたびうきうきして買っていたのですが、9巻くらいまできたとき家の引っ越しなどで本棚を整理することになり、二度も映画になった本作であればきっとこの先も容易に買い直すことができるだろうし、Kindle版を買ってもいいし……と、なんとか自らを説得して処分したのでした。

で、続刊の作品を途中で処分した場合、新刊は買うけれども一定期間が過ぎたら処分する、言わばキャッチアンドリリース、というフェーズに入るのが私の個人的本棚ルールなのですが、しかし、しかしです。

運命の分かれ目、10巻。この10巻には、私の大好きな平賀源内さん(※ところどころ男女逆転作品なので源内は女性)が、理不尽な暴力の果てに病に倒れるシーンがあります。

私、こういう病気が出てくる描写に極端に弱いです。弱いっていうのは、まあ最高という意味で、なんでかは自分でもうまく説明できないんですけど、病気、とくに不治の病、恐ろしい奇病、などが出てくると、途端に心を持っていかれる。それも、大好きなキャラクターがそういうものに見舞われた場合、過剰反応してしまうケースが多々あります。「大奥」でまさかこんなことになろうとは……。

というより、私が「大奥」を毎回楽しみに買っていたのには、作中に出てくる「赤面疱瘡」の描写がなんともいえず心に刺さったという理由もありまして、こういうのが刺さるというと自分でもテンションが下がるくらい、自分の趣味が悪い、と思ってしまうのですが、嗜好は嗜好、仕方がない、諦めて打ちのめされるしかありません。

それで10巻からどうしても処分できなくなり、現在に至るというわけです。

さて前回、「きのう何食べた?」の紹介でも書きましたが、本書「大奥」は江戸の歴史をもとにした、ある意味では「歴史の二次創作」です。よしながふみはもともと二次創作も扱っており、また、自らの作品の二次創作を自分で作るということもしていたためか、「オリジナルのストーリーに対して解釈を加え、別の視点からドラマを作り出す」という手法にものすごく秀でた描き手です。おそらく自分自身の話作りの特質を自分でよく理解したうえで、このテーマを選んだのだろうと思うのです。漫画をきちんとビジネスに繋げるのがうまいよしながふみ……それまでもときどき顔を覗かせていた近代のフェミニズムに対する問題意識を、歴史の二次創作のなかに織り込んで作られたのが「男女逆転大奥」、見事というほかありません。

男女の役割逆転のすえに、女性たちがごく自然に「男が政治に口出しするな」などと男性を貶めるシーンは、女性の自分から見ると、なにか漠然とした巨悪に対して復讐を遂げたようなちょっとした爽快感とともに、罪悪感をも受け取ってしまう、フェミニズム云々などという枠を超えて、人と人が向き合うにあたって真にリベラルとはどういうことか、というようなことまで考えてしまう、啓蒙的な要素を含む実用書などよりはるかにうまい誘導の仕方ではないかと思いました。10巻以上にも及ぶ男女逆転劇の積み重ねがまたうまく機能しているのでしょう。

最新刊では、男女の人口比がもとに戻っていくにつれ、一昔前を思わせるような男尊女卑へと繋がる流れが描かれており、うまい仕掛けになっていると思います。男女逆転、女尊男卑ともいうべき時代を経て、男尊女卑がやってくる、だからこそより克明に浮かび上がる「不自然さ」がある。

いやーしかし治済公はマジで怖かったですね。サイコパスってこういう人のことだと思うし、多分現実にもいると思います。そう思うと余計怖いです。怖すぎて何度も読み返してしまい、また1巻から読みたくて集め直したくなって困ります。

バイオ・ルミネッセンス」志摩 冬青(漆原 友紀)(全1巻)

バイオ・ルミネッセンス (ラポートコミックス)

バイオ・ルミネッセンス (ラポートコミックス)

本棚の写真では蔦のようなブックカバーに覆われていて背表紙が見えませんが、中身はこれ、「バイオ・ルミネッセンス」という短編集です。「蟲師」の漆原友紀が、かつて志摩冬青(しまそよご)名義で雑誌「ファンロード」に発表していた短編をまとめたもの。

なお、ファンロードを刊行していたラポート社は2003年に倒産しており、本書もたちまち絶版になりました。しかしその後、講談社の雑誌アフタヌーンで連載された「蟲師」が人気を博したため、本書「バイオ・ルミネッセンス」は「フィラメント」と改題され、また、著者名も「蟲師」連載時と同じく漆原友紀として、アフタヌーンコミックスから再び刊行されました。「フィラメント」には「バイオ・ルミネッセンス」にはなかった短編が新たに二本追加され、また「バイオ・ルミネッセンス」に収録されている短編が一本削除されているようです。「フィラメント」のみ、現在Kindle版の購入が可能です。→フィラメント?漆原友紀作品集? (アフタヌーンコミックス)

さて、もちろん「蟲師」も全巻所持している私、漆原友紀作品のなかではこの頃の短編がいっとう好きかもしれません。なにしろどれもこれも儚く美しい、一夜の夢のような作品ばかり。

今どきのエンタメ作品というと、起承転結がはっきりしていてドラマティックで、起承転までで提示された伏線は必ず結で回収されなければならない、みたいな、そういうお約束に沿った作品しか「売れない」時代であり、それゆえに徹底して伏線ばら撒き回収にこだわり、謎が残ろうものなら叩かれる、そんな風潮さえ感じてしまいますが、漆原友紀のこの頃の短編はまったく様相が異なります。起承転結なんんのその、転だけが描かれることもあるし、謎は謎のまま、絵と言葉で語られてはいるけれど、言葉を持たない音楽のよう、とでも言えばいいのでしょうか、あるいは真夏にふと頬を撫でる涼風のような、うるさい制約も型もない、ただただ心地良さだけが残る「作品」群なのです。

本書に収録されている短編のなかでもとくに好きなのは「草雲雀」、蚕の神様に命を助けられたとされる少年のお話です。途中までは人間と神の騙し合いのような構図であるものの、後半一転して善悪や、人と人ならざる者との境界が曖昧になる、そのぼかし方が好きですね。

あらかじめ水を含ませた画用紙のうえにいくつも水彩絵の具を落としていくような、酸いも甘いも清きも濁りも、すべてが混じり合って名前のない色に変化していく感じ。「バイオ・ルミネッセンス」は全編にわたってそんな短編ばかりの短編集です。昨今のエンタメは食傷気味なんだよな~という方には、とくにおすすめです。

そうそう、この本につけている蔦のようなブックカバー、これはアフタヌーン本誌の付録だったと思うんですが、「蟲師」のギンコが大量に蔦に埋もれるようにして描かれているイラスト入りのものです。手触りがざらざらしっとりして布と紙の中間のような感じで気に入っているのと、あと、志摩冬青名義の本に漆原友紀名義のイラスト入りのカバーをつけることになんとなく意味があるような気がして、いや多分単なるファン心理というやつですが、奇妙な具合に優越感が満たされるのでずっとこのような状態で保管しています。

(後半へつづく)